『モテたい理由〜男の受難・女の業』(赤坂真理/講談社現代新書)

モテたい理由 (講談社現代新書)

モテたい理由 (講談社現代新書)

 Dan Kogai の嘘つき! これのどこが「男女論の最高峰」(http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50974412.html)よ?

 たんに「自分語り」でしょ、これ。で、ちゃんと「自分語り」として評価すべきでしょ。

 著者は本書第1章で
<じゃあ、女性的視点ってじっさい、どういうものよ?>
<昆虫の眼や鳥の眼で世界を見てみましょうというカメラのように、ひととき、女性の目から見た世界をご体験ください。>
 と書いている。ところが、本書の「男女論」というのは、「女性誌をウォッチしていろいろツッコミしたよ」という内容しかないんだよね。『JJ』とか『CanCam』『FRaU』とかのぶっ飛んだ特集(エビちゃん主人公でストーリー立てて、仕事もしつつ、2人の男の間を揺れ動きながら、毎日髪型変えていくようなの)見て「あり得ない!」とか言いつつ、でもそういうのにいつの間にか洗脳されていくんだ、みたいな。でもこういうやり方じゃ、「そのサンプルとなった女性誌が考えてること」はわかっても、「女性的視点」がわかるとは言えないんじゃない?
 それに、本書で「男はこう」「女はこう」と言っている内容も、「男は一点集中で、女はマルチタスク」とか「女は横並びを好みつつ、わずかの差異で張り合う」とか……言ってしまえば俗説の焼き直しが多い。少なくとも、科学的な根拠にふれられることはない。まぁ、今さら「性差より個人差のほうが大きい」とか野暮なことは言わないけれど。

 ぶっちゃけ、この本に書かれているのは「私の視点」でしかないのだ。どうしてそれを著者はそれを「女性の視点」と言い切れるのか? 自分自身と「女性」を一般化してしまうのは、あまりに無邪気というか、無防備すぎないか?

 だから、この本を「男女論」の本と見るのが間違いのモトなのだと思う。男と女の違いについてガチ主観で語る部分はたしかにおもしろいが、それは枝葉だ。<女性誌ウォッチ>を基本に、モテとかブサメンとか腐女子とかの単語をちりばめたガワをはぎ取ってみると、本書の骨格として白々と現れるのは、自分自身の「アメリカ敗戦体験」を日本人全体にまで押し広げて論じる「自分語り」なのだ。

 終章で、わりと唐突に、著者は「戦争とアメリカと私」を語り始める。(以下要約)
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<公立中学校の三年という学年はファシズムじみた状況で、その空気にどうしてもなじめなかった>私は、なぜかアメリカの高校へ。しかも高校三年間行くはずだったのに、一年で挫折。帰国して私立の女子校に編入するも、ダブリ。もうトラウマだよ。植民地宗主国アメリカで適応に失敗して、戦争と敗戦を内化してしまったわたしは、だから日本そのものだ。戦争を考えることさえ禁じられ、宗教を失った日本人。金のことしか考えなくなったのは当然だと思わない?
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 ここはおもしろかった。著者が「女性誌を見て」でも「周りの男友だちに聞いて」でもなく、自分自身の肉声として発している部分はここだけだ。
 しかし、自分の「敗戦体験」を日本全体にまで広げる部分で、なんか違うと思う。著者は繰り返し「私は、戦争のことを考えるのも禁止という、戦争禁止原理主義のなかで育った」ということを述べている。しかし、これは間違いだ。正しくは「私は考えてこなかった」と言うべきなのだ。もしくは「考えなくても済んだ」と言い換えてもいい。確かに積極的に「考えろ」と言われたわけじゃないだろう。でも、著者は戦争のことを考えてもよかった。日本では別に、警察に捕まるわけでも、罰金をとられるものでもないのだから。

 たしかに日本人は、韓国人やアメリカ人やイラク人やクルド人に比べ、「戦争」について考える機会が少ないかもしれない。しかし、それで何がいけないか? 戦後、日本人はカネのことしか考えなくなったと著者は書くが、では戦争のことや宗教のことを考えれば、もっとマシな国に……いや、もう少しは「あなたが生きやすい国」になったというのか?

 著者は高校受験を控えた中学3年生の公立学校の雰囲気について「ファシズム」と書いている。この国で、公立中学校に通って高校受験をした人はものすごい割合でいると思うが、みんなが「ファシズム」と思ったわけではないだろうし、そう思ったからといって米国留学ができる環境にもいないだろう。つまり、著者は「マイノリティ」なのだ。少なくとも自分ではそう思っているのだ。女性という「マイノリティ」に生まれ、世間になじめずにアメリカ留学して、そこを挫折して、そのうえ留年までして、ますますマイノリティになった。この本は、著者が「なんかヘンだ」と思ってるもの、自分の閉塞感の源になっていると思うもの、自己卑下しちゃいたくなっちゃうようなもの……それを自分だけの問題じゃなくて「日本の問題なんだ!」と主張するための本なのだ。

 著者(http://shop.kodansha.jp/bc/magazines/hon/0801/index04.html)によれば、この本のタイトルは編集者がつけたものだという。たぶんタイトルだけではなく、章構成や小見出しのひとつひとつに、編集者の手は及んでいることだろう。著者が書いた「自分語り」の文章を、どうにか世間と結びつけよう、中年男性を中心とする「新書」というフォーマットに適合させよう、商品として成立させようと奮闘した結果が、本書の随所に見受けられる。ソレはソレでアリだし、ちゃんと担当者は仕事をしたと思う。でも、もし著者が「女性の視点」を代弁することなく、きちんと「自分の視点」を引き受けた上で、「今の日本」への違和感について書いてくれていたら、どんな本になったのだろうと想像してみる。それはそれで魅力的な「自分語り」であったかもしれない……と思うのだ。

※副読本として……結婚と仕事、自己実現とやらに引き裂かれそうになっている、またはええトコ取りしようとして自縄自縛になっている現代女性の生きづらさについて語った本といえば、少し古いが小倉千加子『結婚の条件』(http://www.amazon.co.jp/%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%81%AE%E6%9D%A1%E4%BB%B6-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-26-3-%E5%B0%8F%E5%80%89-%E5%8D%83%E5%8A%A0%E5%AD%90/dp/4022643862/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1200404568&sr=8-1)をおすすめしたい。たぶん、この本、『モテたい理由』のネタ本のひとつなんじゃないかな。『モテたい理由』が「女はこうなのだ」とガチ主観で書いているところを、本人の学歴や経済や社会の条件を整理して、それゆえの選択として描いてあるから、本書の「ガチ主観」と比べてもおもしろいんじゃないかと思う。