1月16日(水)曇りっぽいし寒い

引き続き読書。その後、F誌、T誌の原稿を書き上げ送稿。
どうやら、これまで書いた百年の誤読の注釈を削らなければならないらしい。おとなげないとは思いつつ、しかし、やはり気持ちは萎える。あんなに調べて、調べたものの面白いところだけを抜粋して、自分なりに上手にまとめたという自信のあるものを削る……。おとなげないとは思いつつ、「なんだかなー」という割り切れない気持ちから脱出できない。
しかも、今日は芥川賞直木賞受賞作発表の日。夕方からそわそわしてしまう。
『百年の誤読 海外篇』のゲラを読みながら、TVをつけっぱなしにしていたらNHKの7時のニュースで「芥川賞川上未映子に授賞」の報を聞き、思わず万歳。コーフンしてしまう。
なんせ、今回は芥川賞直木賞とも本命の◎が大森さんとかぶってしまい、これまで双方が「傑作!」と激賞して受賞できた作品などなかったものだから、夢のようだと感激してしまったのだ。
あまりの嬉しさにミクシィの日記に結果をアップしたら、マイミクの方から「直木賞は桜庭さんですよ」というカキコミをいただき、多幸感は絶頂に。その感想はここにアップしました。
http://web.parco-city.com/literaryawards/138/ar_01.html
なぜか、わたしにお祝いのメールがごちゃまんと寄せられるのがおかしい。みんなこの結果が嬉しくてコーフンしてんだね。
古井由吉『白暗淵』(講談社)読了
去年、黒井千次さんの野間文芸賞受賞作『一日 夢の柵』(講談社)を読んだ時も呆れた(褒め言葉)けど、なんか純文学は老人作家に尽きるんじゃないの? これ、すごいですよ。“今・此処・自分(視点人物)”が“いつか・どこか・誰か”に一文の中でするりと入れ替わる巧いのに巧いと誇示しない、純文学極北の文体には比喩なんかじゃなく眩暈を覚えます。
〈人は自身のたどって来た道をじつは知ることはなく、およそ無縁の他人の背に、現在のだろうと過去のだろうと、目を惹かれて初めて、自身の来た道が背後へ伸びて、わずかに見えてくるのではないかと疑った〉
〈分身というものを思った。ここまで来る道の、幾つかの辻のようなところで自身を、後へ置き残すか、立ち去るのを見送るかして、別れて来た。それらの片割れたちと、年が詰まるにつれて、そこかしこで出会う。置いて来たはずのが、先のほうを行く。どれも、長い道の涯に近くまで来て、ようやく一生の運命を悟りかけたふうな背を見せる〉
わたしはかねてから過去というのは後ろにばかりあるのではなく、時に自分の前にあったりもするのではないかと疑っていたのだけれど、そんなぼんやりとした直感がこの小説の中には当たり前の感覚としてあった。みんな、もっと由吉を読んだほうがいいと思う。
由吉を読んだら、一切の何かがしたくなくなった。けれど、それではあまりにおとなげないので、せめて百年の誤読のゲラを読んでから寐ようと思う。

白暗淵 しろわだ

白暗淵 しろわだ