涙は感動の証拠?

石井千湖さま

 「新潮」2月号、ありがとうございます。「かもめの日」、早速読み始めました。まだ半分くらいなんですが、いやー、ラジオのフリーアナウンサーの仕事内容がこんなに詳しく、細かく書かれているなんて! 驚きました。
 そもそもアナウンサーと言ったらテレビだし、ラジオと言ったらDJ。彼らをメインに据えた小説はありますが、番組と番組の間にお天気やニュースを読むラジオのアナは言ってみればすきま職業、主役にはなり得ません。そんな立場(役割)の人間が、できれば聴取率のいい人気番組の中でニュースを読みたいと願ったり、DJとの絡み(かけ合い)があると自分をPRできてラッキーだと考えたりという記述には、私の中にも確実にある脇役のいじましい気持ちがにじみ出ていて、思わず胸が痛くなってしまいました。
 さて、「絶対に泣けないけど感動する本」。
 たしかに「泣けます!」と大書きしてあるポップが立っていると小さな反感が心の中に沸いてきてしまいますが(書店員さんの工夫を貶めるんじゃなくって、私自身「泣く本は自分で決める」と思ってしまう意固地なタイプだからなんですが)たぶん反感の底には、感動の一番の証拠は「泣くこと」なのか? という疑問があるんだと思います。涙は反射的なもので、コントロール不可能だから「一番」な感じがするのかもしれませんが、私の場合、ぐっと胸を押され、表情が固まったまま思考停止になるというのが最大に感動したときの状態です。
 20年以上前に初めて読み、最近読み返してやはり同じような顔になってしまった作品があります。
 中高生の頃、新学年になって新しい国語の教科書が手元に届くと、いったいどんな物語が入っているんだろうとワクワクし、その日のうちに読んだものでしたが、高校2年の教科書を読んでいたとき、ある作品のところで、目の奥ががんがんするほどの衝撃を覚えました。それは、中島敦の「山月記」。説明不要だと思いますが〈自ら恃むところ頗る厚〉かった男が虎になってしまうという話です。当時、なにも取りえがなかったくせに他人に尊重され認められたいという気持ちばかりが強かった私にとって、〈臆病な自尊心〉〈尊大な羞恥心〉という言葉は網膜に焼きつくようなインパクトがありました。何度も読み返した次の日、新潮文庫の『李陵・山月記』を買い、収録されている他の3作品を読んで衝撃はさらに拡大。天下一の弓の名人になろうと修行を重ねた男の伝説「名人伝」(こんな結末が待っていようとは!)、孔子の弟子のひとり、子路の人間臭い生き様を描いた「弟子」(子路の最期の言葉の力強さと言ったら!)、そして表題作の「李陵」。「山月記」も含め、どれも中国の古典を源とした作品ですが、世界史で学んだ人物が幾人も登場する「李陵」は、彼らがただの「覚えるべき名前の人たち」でなく、息をし、悩み、戦った人物として自分の中に住み着いた作品でした。
 主人公の李陵は、漢の時代の武官。彼は武帝の命令で、中国北部からモンゴルに進出していた遊牧民族匈奴を征伐するため、五千人の兵を引き連れて北に向かいます。最初は勝ち続けていたものの、南に戻る最中に追撃に遭い、軍は全滅。李陵は匈奴の親分・単于(ぜんう)に捕えられてしまう。ところが、俘虜となった李陵を単于は〈賓客の礼を以て〉処遇したのでした。
 李陵は単于に対して次第に尊敬の念を持つようになります。また単于の息子も李陵を慕い、二人は年の離れた親友のような関係になる。単于の娘を妻に娶り、子も成した李陵は全身匈奴色に染まりつつありましたが、そんな彼の心を不穏に揺らす存在があった。それは、かつて自分と同じように囚われの身となり匈奴に手厚くもてなされたものの、その境遇に甘んじることを潔しとせず、バイカル湖のほとりで羊を放って暮らしている蘇武という名の二十年来の友。〈誰一人己が事蹟を知ってくれなくとも差し支えない〉と心底思っている蘇武のたたずまいに、李陵は自分の足もとがぐらつくような不安を覚えます。
 一方漢の国では、敵に寝返った李陵に対する武帝の怒りが爆発。ただひとり李陵を擁護した歴史家・司馬遷は、その言を翻さなかったため「宮刑」に処されることになってしまう。宮刑はすなわち去勢の刑。「史記」を執筆中だった司馬遷は、全身全霊をもってこの思いがけない屈辱に耐えようとするのです……。
  司馬遷の煩悶と再起。そして「義人」である蘇武に対する李陵の葛藤。
 〈運命と意地の張り合いをしているような蘇武の姿が、しかし李陵には滑稽や笑止には見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、平然と笑殺して行かせるものが意地だとすれば、この意地こそはまさに凄まじくも壮大なものと言わねばならぬ。(中略)人に知られざることを憂えぬ蘇武を前にして、彼はひそかに冷や汗の出る思いであった〉
 たった50ページのこの作品の一行一行の濃さに、多分私は20年後も圧倒されると思います。 
 あぁ、また長くなってしまった。ごめんなさい。やっぱり、学生時代に読んで感銘を受けた作品って、自分の中に深く根付いているものだなぁと思います。というわけで、千湖ちゃんの「10代の頃に出会ったこの1冊」をぜひ教えてください!
北村浩子

李陵・山月記 (新潮文庫)

李陵・山月記 (新潮文庫)