あの日に帰りたくない

北村浩子さま

「絶対に泣けないけど感動する本」ありがとうございます! 「山月記」、私の教科書には載ってなかったんですが、高校の先生に薦められて北村さんと同じ新潮文庫を買いました。知らない漢字がいっぱい出てくるのに内容がぐぐっと入ってくる、悲しいけどきれいな文章だなぁと。アホみたいな感想ですみません。

私の場合、最大に感動したときは、脳ミソがぐるっと一回転したような状態になります。もちろん本当は回転しないんですけど、それまでの経験で積み上げてきた世界が崩されたり、全く別物に見える。例えば落語の「あたま山」。自分の頭の中の池に身を投げて死ぬ……「なんだそれ! わかんないけどすごい」という感じが好きなんです。

で、お題は「10代の頃に出会ったこの1冊」ですよね。数々の恥ずかしい記憶がよみがえり悶絶しながら、とりあえず、今、手元にある本から選んでみました。『チェーホフ短篇集』(原卓也訳、福武文庫)です。ペシミストの青年と虚無的な思想は若者にとって不幸なものでしかないという技師の会話を聞いた主人公が〈この世のことは何一つわかりっこないさ!〉という結論にたどり着く「ともしび」や、自分の意見を持たない空っぽ女をクールな視点で描きながらも突き抜けた明るさを感じさせる「可愛い女」など6篇を収録。なかでも強烈だったのが「六号室」です。

舞台はロシアの片田舎にある《慈善病院》。ほとんどまともな治療は行なわれてないその病院の、さらに打ち捨てられた別棟・六号室には、5人の精神病患者が入院していました。そのうちたった1人の貴族であるイワン・ドミートリチの数奇な半生と、《慈善病院》の医師アンドレイ・エフィームイチがたどる皮肉な運命が、謎の視点人物〈わたし〉によって語られます。久しぶりにページをめくってみると、

人生はいまいましいわなです。

という医師のセリフに、ぐりぐりとエンピツで傍線を引いてありました。病院の酷い状態に気づいても何もできず、誰に対しても卑屈に振舞い、読書にふける毎日を過ごしていた彼は、ある日、精神病患者として入院しているイワン・ドミートリチこそ自分が話すにたる知的な人物と思い、六号室に通いつめるようになる。そのことによって〈どうやら、イカれたらしいな!〉と見なされ、強制的に六号室へ入れられてしまいます。彼が死ぬ間際に〈並みはずれて美しく優雅な鹿の群れ〉が走りすぎるというシーンも忘れられません。

イワン・ドミートリチが被害妄想にとりつかれるのは道端でたまたま囚人とすれ違ったからだし、医師が患者になったのは相手を人間扱いして対等に会話をしてしまったから。ほんの小さなきっかけで、自分を取り巻く世界は反転する――そんな不条理なところに魅せられたんでしょう。田舎に住んでて、家からも学校からも脱出したいという閉塞感があったので、登場人物にも共感をおぼえたし。絶対にあの頃には戻りたくないなあと思います。

さて、どよよんと暗い話になっちゃったので、次は楽しい本がいいですね〜。例えば本好きの女子が幸せになる話とか! ないですかねえ。

石井千湖