2月17日(日)終日読書の巻

なんと今日も締切がないっ! 月曜日のことを考えると本当は1本でもいいから済ませておくべきなんだけれど、読まなければならない本も山積みだから今日は一日読書にあてることにするのであった。
角田光代『八日目の蝉』(中央公論新社)読了。
ぐはっ。なんじゃこりゃ。なんちゅー巧さなんであろうか。愛人の妻が産んだ赤ん坊をさらった女、なんてありふれた物語を描いて比類なき小説に仕上げている手腕に、恐れ入谷の鬼子母神なんである。
物語は赤ん坊をさらった女の視点からなる第1章と、成人したさらわれ子の視点からなる第2章に分かれている。立ち退きを迫られている家に立てこもった初老の女にかくまわれた後、新興宗教めいた駆け込み寺的コミュニティに入り込み、身を隠すため全財産の4千万円を委託してしまい、そこにも居られなくなってたどり着いた小豆島でようやく心穏やかな生活を手に入れるも――。
第1章における、愛人の子を薫と名づけ慈しむ「私」の愚かさと悲しみを、濡れていない文体でさらりと描く角田光代の作家としての自信に圧倒されるばかり。ダメな作家は自分の力も読者の読解力も信じていないから、こんな風に書くことができない。「ここ、主人公に感情移入して」とばかりにウェットな書き方をしてしまうものなんである。過去のインサートの仕方も絶妙にして自然。テクニック的に素晴らしい上に、読者の情動を動かす共感力にも長けている。文句なしの傑作といえましょう。
「あんたを見ると、あの女を思い出す」と言い、夜遊びを繰り返す母。やましさと罪悪感からか家族と距離を取り、ほとんど喋らず岩のように動かず酒を飲んでいる父。そんな逃げることしか知らないような両親が疎ましい。世間の容赦ない噂で職を変え、居場所を転々とせざるを得ず、普通の家庭のような暮らしが送れなかったことも、両親がそんなだめな人間になってしまったのも、全部自分をさらった希和子という女のせいだ。かたくなな表情の下にたくさんのどろどろした思いを隠しこむようになってしまった恵理菜(=薫)の再生を描いた第2章の終わり近く、小豆島に向かう船上で17年前希和子がつかまった時に放った言葉を恵理菜が思い出すシーンで思わず落涙。
しかし、角田光代って書くごとに怖いくらい巧くなってませんか。直木賞受賞作『対岸の彼女』が今となっては稚拙な小説にしか思えないくらいなんである。一体、どこまで手練れになっていくんだろう。亭主の伊藤たかみにその才能の100分の1でも分けてやれればいいものを。

八日目の蝉

八日目の蝉

が、しかし、巧い小説がわたしにとっての“マイ・フェイヴァリット”になるかといえばさにあらず。瑕瑾が目立っても、何らかの要素で驚かせてくれる小説が、わたしは一番好きなのである。