第3回 小説の中のカフェ『荒地の恋』ねじめ正一/文藝春秋(その1)

(その2) (その3)
「神保町ラドリオ」   
    

「ある女性を愛している。君には済まないと思ってる。でもどうしようもないんだ」

 残酷なせりふを妻につきつけながら、その言葉に官能的な喜びを感じるほど親友の妻を愛してしまった詩人北村太郎。その相手とは同じく「荒地派」の詩人、田村隆一の妻明子であった。
 精神を崩壊させていく北村の妻治子。田村と北村の間を行きつ戻りつする明子。二人の関係を知りながら、北村からも明子からも離れられない田村。さらに年若い恋人阿子の出現により、北村を取り巻く人間関係は錯綜する。家も職も失い、交通費にもことかくほど窮乏していく北村だったが、恋をきっかけに「詩」を書く力を取り戻していった……。
 「書評の愉悦」で前回の課題本としてとりあげられた『荒地の恋』は、濃密な大人の恋を描きながら北村が詩人として生きた軌跡を丁寧に辿った小説である。この本には北村が通った喫茶店がたくさん登場するのも興味深い。コーヒー好きの北村が、詩を書いたり本を読んだりしながら過ごした場所。そこではどんな時間が流れていったのだろうか―。
 今回の読書カフェは、小説『荒地の恋』に登場する喫茶店を訪ねてみました。

<北村はその表情の変化を楽しんだ。美人とかいうのではなく見飽きない顔があるものだと思った。
「(略)田村に会ったのはね……昭森社って出版社があるでしょう」
「神田のね。ラドリオって喫茶店の前ですね」>

 明子と北村の会話である。田村とのなりそめを語る明子の顔を、北村はじっと観察している。その直後に彼は明子に恋したことに気づく。恋に落ちる直前の心理を表す、とても印象的な場面だ。
 田村と明子が出会った昭森社。そして北村も、いかにも通いなれているふうに即答した「ラドリオ」。果たして本当に彼らはそこに通っていたのだろうか。ネットで検索してみると、「ラドリオ」は田村隆一のいきつけであり
昭森社ビルから借金取りが帰って行くのを、「ラドリオ」のカーテンの陰から待っていた>
などというエピソードにもヒットした。田村のエッセイにも「ラドリオ」のことはよく出てくるそうだ。これはもう行ってみるしかない。
 昭和24年に創業された「ラドリオ」は、田村たちが通っていた頃そのままに、時間が止まっているかのようだった。濃い飴色になったレンガや柱が、長い時の流れを物語っていた。
 昭森社は「ラドリオ」のハス向かいにある姉妹店、タンゴ喫茶「ミロンガ・ヌォーバ」の二階にあったそうだ。


「神保町になぜカレー屋が多いかご存知ですか?」と店主の菅原さん。
左手に本を持ち、右手のスプーンだけで食べられる本読みに最適なメニューであるからだそうだ。もちろん「ラドリオ」でもご自慢のチキンカレーを用意されているとのこと。コーヒーにホイップクリームを浮かべたウインナコーヒーを日本で最初に紹介したのは「ラドリオ」で、現在でも人気のメニューである。
 18時からはバータイムとなるが、本を片手にお酒を飲まれる方も多いとのこと。勉強机のような一人がけ席も人気である。窓には天幕のようなえんじ色のカーテンがかかっていた。なるほどちょっとこもっていたくなる。隠れ家にするにはふさわしい気がした。長い間、田村や北村をはじめとした文人たちに愛された「ラドリオ」。本読みに優しいお店であった。


神保町ラドリオ
住所:千代田区神田神保町1-3
TEL:03-3295-4788
営業時間:11:30〜22:00(土 12:00〜20:30)
*18時からバータイム 平日のコーヒーは19時まで
定休日:日曜日
アクセス:地下鉄神保町駅A7出口左
神田伯剌西爾を背にして書泉グランデと鶴谷洋服店の間の路地を入る
http://gourmet.yahoo.co.jp/0000576044/M0013011500/



「茶房神田伯剌西爾
    
神田伯剌西爾」は、「ラドリオ」と並ぶ有名な老舗喫茶店。神保町のレトロカフェが集まる一角にある。
作家の常連も多く、ここからいくつもの物語がつむがれていったことだろう。
荒地の恋」では常連だった北村が、娘優有子にこの店を紹介し、やがて彼女も店の人と挨拶をかわすほど馴染みになったとある。
家を出ることを北村が優有子に告げるため、この「神田伯剌西爾」で二人は向かい合う。
北村の家では「組む」と「友だち」が合わさった「組みたち」ということばがあった。治子と長男の尚が「組みたち」。北村は優有子と「組みたち」。出かけるときは二人ずつ必ず手をつないだが、この「組みたち」が離れたことはない。北村と優有子は4人家族の中でも特別な関係だったのだ。

「今日から家を出ることにした。行く先は言えない」そう告げる北村。
「どうして私を置いていくわけ? そんなのあり?」詰め寄る優有子

 優有子にしてみれば予想もつかなかったに違いない。静かなこの店ではきっと目立っただろうなと想像しながら、店内を見渡せる場所に席を取った。
 自家焙煎珈琲の香ばしい香りが満ちている。はっと目が覚める濃い目の「神田ぶれんど」は、コクと深みがありながらまろやかな口あたり。シフォンケーキ、チーズケーキなどのセットも人気だそうだ。ランチ後のコーヒータイムの混雑がひと段落する14時過ぎから閉店まで、本を読みに来るお客様がひきをきらないとのことだ。遠方からも量り売りの「神田ぶれんど」を求めて客が訪れるほど、この店のファンは多い。
 暗めの店内から、地上への階段を上がった北村と、店に一人残された優有子。それぞれぞれの目に映った景色はまったく異なっていただろう。コーヒーの苦さ味わいながらそんなことを思った。

 
茶房神田伯剌西爾
住所:神田神保町1-7  小宮山ビルB1階
TEL:03-3291-2013
営業時間:11:00〜21:00(日祝〜19:00)
アクセス:地下鉄神保町駅A7出口左
書泉グランデ脇、小宮山ビルB1F
小宮山書店のわき道を入って右の地下
http://brazil.nobody.jp/


(その2)へつづく


荒地の恋

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