贅沢よりも幸福?

私的生活

私的生活

北村浩子さま
いま、自らの不明を恥じています。読んだことなかったんですよ、朝倉かすみさんの本。デビュー当時から、(北村さん含め)私の周囲の信頼できる人たちが薦めていたにもかかわらず。もともと恋愛小説にあまり興味がなくて、仕事で読まなきゃいけない状況にならない限り、後回しになってしまうんです。前回、北村さんが取り上げてくれたので、この機会を逃すまじと、なんと10か月も積読していた『そんなはずない』を読みました。一読衝撃。
手練の姉と、生一本の妹。対照的な性格の姉妹の恋の行方を描いた小説ですが、書き方がすごい。まず妹の体つきを箸袋に喩えるなど、身近な言葉の使い方が絶妙。セックスの場面に腋毛が出てきたり、ある種生々しい話なのに、品があるのも不思議です。食べ物と酒もおいしそうだし。つくづく文章が巧いんだなあと。過去付き合ってきた男のアドレスを眺めながら感慨にふけっている姉に対する妹のセリフも、アフォリズムとして効いています。

ひとが選んで持つものは、それぞれ、そのひとにとって入用で、しかも、似合いのものなんだよね

結婚する相手も“ひとが選んで持つもの”。入用で似合いのはずです。でも夫婦を描いた小説って、どちらかというと暗い話が多いんですよね。不倫したり、死別したり。うーん、なんにしよう? と迷って、『私的生活』(田辺聖子著/講談社)にしてみました。きっと北村さんは読んでいるでしょうけれども。

昨年復刊された3部作の2作目です。主人公は、中谷(旧姓・玉木)乃里子。31歳の時〈身も心もビリビリして、煎られるような感じ〉で惚れぬいた男に失恋し(『言い寄る』参照)、〈お金があって、色男で、健康そのもの、とびきり好色で精力に溢れていて、若くて独身〉おまけに〈ウマがあってくみしやすい〉剛と結婚します。それから3年。あくせく働く必要がなくなった乃里子は、おいしいものを食べ、高い服を買い、朝から剛といちゃいちゃ。海が見えるゴージャスなマンションの浴室で、デパートの外商に持ってこさせる、透明な菫色の帆立貝の形をした石鹸のいい匂いをかぎながら、〈贅沢っていいもんだ〉と実感するのです。この〈贅沢〉という言葉が、彼女の結婚生活を象徴するように何度も出てきます。

もっと豪華な贅沢は、上にはいくらもあるだろうけど、きまった男がいて、私もその男が好きで、その男も私に惚れてるというのは、贅沢の極致に思われた。

ところが〈だましだまし〉やりすごしていた剛のヤキモチや暴力的な言動が、魅力的な中年男・中杉サンや昔の男・啓との邂逅、自分の城だと思っていた部屋を台無しにされた事件を通して気になりはじめ、仲のよい漫才コンビのような夫婦関係はいつしか変化してしまう。中盤の

 そうだ、幸福という言葉を忘れていた。
 私は剛と食欲に充たされた生活を「贅沢」と表現するけど、「幸福」と呼んだことはないのだった。

という言葉と、最後の〈贅沢のたのしみ〉が決定的に色あせる瞬間が、ずーんと胸に響くんですよねえ。やっぱり結婚小説はハッピーエンドになりにくいのでしょうか。ただ『私的生活』の場合は、帆立貝の形の石鹸とか桜貝の箱とかきらきらしたアイテムがたくさん出てきて、剛とのいちゃいちゃシーンも頻繁にあるせいか、からっと明るい感じ。そこが稀有だなあと思います。
シリーズ完結篇の『苺をつぶしながら』まで、表紙を並べてみるとこの3部作は全部装幀がかわいい。作品に対する愛を感じます。内容はもちろんですが、本は見た目も大事。そこで次のお題はお気に入りの装幀でお願いします!
石井千湖