正気の破れ目

淑やかな悪夢 (創元推理文庫)

淑やかな悪夢 (創元推理文庫)

北村浩子さま
 なんでしょうねえ、あの生き物。
 人体の一部にも見えます。指とか、男性器とか。そういえば最近読んだ『モンスターズ』という本。やはりフランシス・ベーコンの「磔刑のキリストの足元の人物の三つの習作」シリーズが表紙になっているんですよ。でも『ゲルマニウムの夜』よりも怖くない。表情に愛嬌があるからでしょうか。同じモチーフでも、ちょっとした違いで印象が変わる。絵っておもしろいですよね。

 例えばこんな絵はどうでしょう?
 背景は〈くすんだ、不潔な感じの黄色〉〈ところどころは毒々しい印象のオレンジ色、その他の部分は病的な硫黄の色〉。そこに〈折れた首みたいにだらっと垂れて、球根のような目が逆さまのまま、こっちを眺めているように見える模様〉が繰り返し描かれている――。
 これ、実は壁紙の描写なんです。何箇所もはがれ、破れている古い壁紙。イギリスアメリカの女性作家シャーロット・パーキンズ・ギルマンの短編「黄色い壁紙」(『淑やかな悪夢』に収録)に出てきます。
 夏の休暇を過ごすためにやってきた古い家。神経の不調に悩む「わたし」は、黄色い壁紙が貼られた部屋に閉じこもっています。本当は家の仕事もしたいし、書き物や空想にふけることが好きなのですが、医師である夫は病気を悪化させるといって許してくれません。それでも彼の目を盗んでときどき文章を書いています。あとは、壁紙の模様をじっと見ているだけの日々です。
 毎日眺めているうちに、「わたし」は壁紙の向こうにあるものを見い出します。それから、部屋の床に近い部分をぐるりと囲む形で、何度も何度もこすったような筋がついていることに気づくのです。どうして壁紙に筋がついたのか判明するラストシーンが、めちゃくちゃ怖い。怪物も悪魔も幽霊も出てきませんし、超常現象も暴力沙汰も起こりません。部屋の中は静かなままなのに怖いんです。

こんな小説は書かれるべきではなかった。読んだ者が誰であれ、正気を失わせること疑いなしだ。

 発表当時、↑こんな抗議の手紙が来たというエピソードにも納得。再読していたら、本のページに印字された文字が不気味な模様に見えてきました……。

 『淑やかな悪夢』は怪談のアンソロジーで、他の収録作もみんな「あからさまじゃないのに恐い話」です。1冊でいろんな人の作品が楽しめる。お得ですよね。次回は北村さんオススメのアンソロジーを教えてください。
石井千湖