第3回 小説の中のカフェ『荒地の恋』 ねじめ正一/文藝春秋(その2)

(その1) (その3)

「ギャラリー&カフェ クライン ブルー」     
         
 明子との生活のため、なにもかも捨て家を出た北村だったが、幸せな時間はそう長くは続かなかった。二人で過ごす初めての正月にも、明子は掃除を言い訳に、田村のいる家へ帰ってしまう。テレビもない新聞もない部屋で、北村は自分の詩のタイトルをポツンと一人つぶやいてみる。

「シャビー・ニュー・イヤー」 シャビーな新年。みすぼらしい新年。ケチ臭い新年。すりきれた新年。あしたは今よりまだ深い底がまっているのだ、と北村は思った。治子と揉めていた頃、今は地獄だとよく思ったが、地獄はどうやらそんな生やさしいものではなさそうだ。

 終わらせることよりも、はじめることのほうがよほど地獄であると北村はようやく気づくのだ。そんな時にも北村は、元旦に開いている喫茶店を探しに町へ出る。彼にとって喫茶店とは、なくてはならない心の拠り所であったのだろう。
 その翌月、横浜駅の駅ビルにあるカルチャースクールで、北村は「詩」の講師の職を得た。週に二回の講師料は、治子に送る慰謝料の半額になる。授業後に、駅ビルの喫茶店で生徒たちと歓談するひと時が、彼の新たな楽しみとなった。
 やがて北村の生活は、思わぬ方向へ迷走する。小銭ばかりの財布にため息をつき、次の入金を指折り数える不安な毎日。明子にふりまわされるように転居を繰り返す落ち着かない暮らし。そんな日々の中で、親子ほど年の離れた恋人阿子との出逢いは、暗闇に一筋の光明を見たような煌めきであったに違いない。
生徒たちと通った馴染みの喫茶店で、阿子との逢瀬を心待ちにする北村の心情が、克明に記されている。

コーヒーがきた。時計を見ると、阿子との約束の時間まであと七分だった。久しぶりの逢瀬に心がときめいた。(略)約束の時間が近づくにつれて一分がどんどん長くなる気がする。チューインガムのように延びる時間に耐えるには、カタログでも眺めているしかないのである。カタログと喫茶店の入り口を目が往復する。約束の十二時半ジャストに阿子がドアを押して入ってきた。(略)

「待った?」「そうでもない」視線が絡まる。

 急ぐので、とウェイトレスに告げると二人は店を出る。向かう先はいつものラブホテルだった。そして二人の熱情のシーンへと続く。

伝票を取り、ワープロのカタログをカバンに突っ込んで阿子の後を追う。病を得てから、北村の阿子への欲望は激しさを増していた。まず抱き合わないと、阿子との時間が始められなかった。(略)「北村さん、どんどん若くなる」―北村の欲望を阿子はそう表現した。阿子は北村の欲望を喜んで迎え入れているようであった。

(以下、過激な描写が含まれるため省略)

 さて前置きが長くなったが、阿子と待ち合わせ、生徒たちも常連だった喫茶店とは、どこにあるのだろうか―。
カルチャースクールが入る駅ビル。別の階にはU書店があるとも書かれている。
 該当すると思われる駅ビルは、朝日カルチャースクールがある、ルミネ横浜だった。講座後に生徒たちと立ち寄ったのは、このルミネ内の喫茶店に違いない。
 しかし現在は喫茶店の営業はしておらず、この4月にオープンした一軒を除くと「Afternoon Tea TEAROOM」「BAGELBAGELマクロビオティックの「FANCL GARDEN」の三軒のカフェへと姿を変えていた。若い女性で賑わうおしゃれなカフェは、どの店も終日禁煙。愛煙家の北村が愛した喫茶店の面影はとどめていなかった。

 そこで今回は、隔週水曜の2時から4時までにここにくれば北村に会えると言われた神保町の「アダ・イブ」をご紹介しようと考えた。ところが探してみても「アダ・イブ」はなかなか見つけられなかった。
わからないはずである。カタカナの「アダ・イブ」で探していた店名は「Ada-Eve」と書き、その後「我羅」に、次は「クラインブルー」と、名前もオーナーも変わっていたのである。

 ようやく探し当てたクライン・ブルーの扉をあけると、そこは予想以上に広々とした洗練された空間が広がっていた。

効果的にブルーをあしらった店内は、ギャラリーカフェならではのセンスの良さが伺える。青色を追求し続けたフランスの画家、イヴ・クラインにちなんで「クライン・ブルー」とつけられたそうだ。バータイムには、ブルーの照明が幻燈のように店を照らし、昼間とは違った幻想的な空間になるそうだ。

「すいているときはいくらでも読書を楽しんで下さい」とおっしゃる美しいマダム。
テーブル席もいいが、一人分のスペースがゆったりとした、光沢の美しいカウンターテーブルがとても落ち着ける。特におすすめの席は、読書や書き物がすすみそうな、窓に面した個室の三席。神保町の通りが見下ろせる。空いていれば自由に使っていいそうだ。
今も北村氏のお嬢さんが、時折おみえになるという。

 明子の乱心。友の死。それまで以上に波乱の晩年をすごした北村の身が、ついには平均余命三年という「多発性骨髄腫」に冒される。けれど、根が楽観的な彼は、残り僅かな人生の灯火を見つめながらも、友に囲まれ朗らかに過ごしたそうだ。病院の帰りに必ず立ち寄ったこの店での時間も穏やかに過ぎていったようだ。

 14歳で詩をはじめて53歳までに著作は2冊。収録詩の数が少なく「たったこれだけかぁ」と仲間に言われた北村だったが、明子との出逢いをさかいに、とり憑かれたように詩に没頭する。その後15年間に、単行詩集だけで13冊(遺稿集1冊を含む)が出版された。

 1992年、北村は静かに息をひきとった。享年69歳だった。

彼の没後に出版された詩集のタイトルから『荒地の恋』の最終章は、「すてきな人生」と締めくくられている。

   
       ほろびるのは、わかっていても

       しかし、無でいるわけにはいかないから

       難問の野原で懊悩し、もだえ歎き

       でも、にっこりしてカードを切ったり

       コロッケを、口いっぱい頬ばったりしている


      「すてきな人生」より

           ※コロッケは明子の得意料理

荒地の恋

荒地の恋

(その3)へつづく
ギャラリー&カフェ クライン ブルー
住所: 千代田区神田神保町1-7 三光堂ビル2階
TEL:03-3295-2635
営業時間:11:00〜24:00(日祝12:00〜19:00)
バータイムは7時頃から
アクセス:地下鉄神保町駅A5,A7出口三光堂書店2階
コーヒー500円 ケーキセットは700円
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