母校愛憎その3 私は勉強ができない

 私は人前で漢字を書くことが苦手だ。仕事柄、取材中などにメモを取ることがあるのだが、漢字を使おうとする瞬間、頭の中が真っ白になり、ごく簡単な常用漢字も思い出せなくなることがある。だから、私のノートにはひらがなが多く、おまけに字も汚いので、後から見ると何を書いてあるのかよくわからない。ノートだけ見ると、まるで〝アホの子〟の落書き帳だ。

 自分の名誉のために言っておくが、それでも幼い頃から活字を読むのも、文章を書くのも好きな方で、大人になってからは仕事で日々文字に接しているので、難解な熟語だって平均的な日本人よりは知っている方だと思う。しかし、こと〝漢字を書く〟というシーンに至っては、動悸が激しくなる、手に汗をかくなど、閉所恐怖症とか対人恐怖症に似たクライシスに陥る。

 これに関しては、今までの数十年間(バカだから仕方がない……)と、うつむき加減で生きてきたが、このエッセイを書くに当たって、昔のことを回想していたら、そうなってしかるべき、トラウマの源流に行き当たったのだ。

 前2回のエッセイで書いたように、私が幼少期を過ごした小学校は、カトリックの厳格な教育が施されている女子校だ。おまけに、勉学にも大変熱心で、地域ではちょっとした女子の進学校として知られている。しかし、土曜の夜には母親から「8時だよ 全員集合!」を見ることを強要されるような我が家が、勉学に熱心なはずもなく、私はたまたま近所に住んで、付属の幼稚園に通ったおかげで、お情けで入学したようなものだった。

 そこでは、小学1年から英語の授業があり、同じく1年から毎週(隔週だったかな?)水曜の朝に、100問を10分間でこなす、漢字の書き取りテストor算数の計算テストが行われた。小学4年からは、放課後に中学受験用の分厚い参考書を使った国語と算数の補修授業が始まり、そのときは学年全体が能力別にA→B→C→Dの4クラスに分けられた。当然私は国語がC、算数がDとかいう体たらくだったと記憶している。

クラス分けの発表があるたび、それなりにへこんだ。小4にして〝階級格差〟に敏感になり、社会で江戸時代の身分制度について習うと、「私たちみたいだね!」などと言い合う自虐的な子供になっていった。小学生ゆえ、酒でも飲んで憂さを晴らす訳にもいかない。

 中でも100問10分間の書き取り&計算テストに関して学校はたいそう熱心で、毎回、全学年の成績優秀者の名前が校内の掲示板に張り出された。もちろん、私の名前が登場するようなことはなかったが、それ以前に急かされて何かをするということが苦手な私にとって、水曜の朝はいつも憂鬱だった。
 この10分テストについては、今も忘れられない苦い思い出がある。小学2年の3学期も末のことだ。担任のY先生が言った。「今回の漢字書き取りテストは、全員が100点を取るまでやります。例え99点でも満点が取れなかった人には、何度でもテストを受けてもらいます」と。

 地獄が始まった。それでも初回のテストでは70点くらいは取れていたと思う。しかし、初回から満点を取り、さっさと足抜けする優等生も数名いた。私は(なんとかなるだろう)と思っていた第2回、同じ問題なのになぜか初回より点数が落ちた。第3回、うかうかしていたら学年の半数近くが満点を取った。聞けば、親が付きっきりで指導するなど、みなそれなりに対策を講じたたらしい。4回、5回と追試を重ねても私は満点が取れなかった。

 100個の漢字と熟語くらい、いくら小2でも覚えられそうなものだと思うかもしれない。しかし、このテストでは例えば〝巳〟と〝已〟のような細部の差異や、1字1字の〝留め〟や〝払い〟に至るまで厳密にチェックされ、できていなければ不合格とされた。私は最善を尽くして覚えたつもりでも、追試本番になるとちょっとした留めや払いを間違えた。今思えばそれは、漢字を覚えていないのではなく、満点奪取というプレッシャーによるケアレスミスだったと思う。

 残りの人数が10名程度になると、追試験会場は放課後の図工室に移された。ひとり、またひとりと漢字地獄を抜け出して行った。いつまでも合格できない私は、家に帰るたび母に叱責された。仕方なく、楽しみにしていたテレビ番組である「ドリフの孫悟空」(ドリフターズの面々が、孫悟や三蔵法師に扮したところを模した人形劇風ドラマ)を見ることも自粛して机に向かった。隣室から聞こえてくる〝ニンニキニキニキ、ニンニキニキニキ、ににんが三蔵!〟という能天気なテーマソングが恨めしくも切なかった。母が「ドリフの孫悟空」を見ていた。

 しかし、努力もむなしくサドンデスまで残ってしまったのは、この私と同じクラスのKさんの2人だった。Kさんのことは普段から(この子、ちょっとどんくさいわ……)と感じていたので余計ショックだった。

 他の生徒たちが学年末の行事に向けて、体育館で合唱や学習発表の準備に勤しむ中、私とKさんは西日の差し込む図工室で最終戦に臨んだ。私は今度こそ、完璧だと思った。Y先生が2人分の答案をすばやくチェックする。渋い表情のY先生が言った。「大野さんは合格にしましょう。Kさんは明日もう一回!」。私は、1箇所だけ払うべき部分を払っていなかった。本来なら99点で不合格だ。しかし、ここまで来るとさすがに先生もあきらめたのだろう。私は赤鉛筆で大きく100と書かれた答案用紙を握りしめ、図工室を後にした。少し、不本意だった。

 行事の練習に合流するため、体育館に向かった。誰もいない廊下を歩きながら、8歳にして自分の無能さをかみしめた。人生初の大きな挫折だった。このときの西日の色と、湿気たような廊下の匂いを、私は生涯忘れないだろう。