1月1日(木)懸案の『黒百合』問題について語るの巻

昨年12月13日に約束していた、「TV Bros.」で書いた多島斗志之氏の『黒百合』評がミステリー・プロパーの皆さんの不興を買った問題の自己検証に、ようやく着手しようと思うんですの。年末にインフルエンザに罹患したりしたものですから、かなり間があいてしまって申し訳ありません。
というわけで、今回はネタバラシの嵐が吹き荒れます。2008年国内ミステリーの話題作たる『黒百合』をこれから楽しもうと思っている方は、これ以降の拙文を決して読まないでくださいねー。










まずは、わたしが「TV Bros.」で書いた文章を再掲します。

 警告! 今日は思いっきりネタバラシをしますので、多島斗志之の『黒百合』を読もうと思ってる皆さんは、先は目を通さないようにして下さいね。
 この物語は1952年の夏、六甲山の別荘地で二人の少年が一人の少女に出会って恋に落ちるシークエンスから始まります。語り手の〈私〉こと進と一彦はともに14歳で、父親同士が古くからの友人です。少女の名は倉沢香。やはり14歳で、大きな別荘に住むお嬢様です。
 第2章の舞台は昭和10年のベルリンで、語り手は一彦の父親です。宝急電鉄の会長と東京電燈の社長を兼務している小芝一造の海外視察旅行に、宝急側の秘書として同行。東京電燈側から同行している進の父親と共に小芝の仕事と身の回りの世話をしています。そんな3人に駅で声をかけてきたのが相田真千子。20歳の若さで外国を一人旅する真千子を心配する3人ですが、「日本から来るはずの人を待っているんです」という以外、彼女は事情を明かそうとしません。
 再び進らのパートである第3章の後におかれた、昭和16年から20年を舞台とする第4章の語り手〈私〉は宝急電鉄で車掌をしており、恋文をくれた倉沢日登美(香の叔母)と清い交際をしています。それに腹を立てた日登美の兄・貴久男(香の父)から、〈私〉は空襲のどさくさにまぎれて殺されそうになるのですが、逆に殺めてしまうことになります。第2の殺人が起こるのは、1952年の六甲を舞台にした第6章。「兄さんは、あんたが殺したんやろ」と脅迫してきた香の叔父・貴代司が第4章の語り手である〈私〉に殺されるのです。
 さて、この2つの殺人事件の犯人である〈私〉とは何者か。それは真千子/一彦の母親。つまり、第4章に描かれているのは女性同士の恋愛だったのです。これはいわゆる語り/騙りによってミスリードする叙述ミステリーで、その趣向自体はいいのですが、ベルリンと神戸、六甲を舞台にしながら、人間関係がせせこましくないですか? 同じ別荘地に滞在する日登美と真千子が、顔を合わせないことがありますか? いくら真千子の足が悪いといったって。それから、真千子がベルリンで待っていたのは男性です。後年、一彦の父とも結婚しています。つまり、ヘテロセクシュアルです。ヘテロの女性がなにゆえ男装の麗人のような車掌になり、女子高生と恋愛するのか。そのあたりの事情を支える説得力にはなはだ欠けるゆえに、叙述ミステリーとして素直に騙された快感に酔えない。「小狡い」としか思えないんです。この程度の作品を、しかし、本格系レビュアーが褒める褒める。納得いかねーな、オデは。


これに対し、ミステリーを愛する皆さんから受けた反発は、わたしのレビュー中にある〈日登美と真千子が顔を合わせないことがありますか?〉〈ヘテロの女性がなにゆえ男装の麗人のような車掌になり、女子高生と恋愛するのか〉という記述に寄せられていると思われ、「真千子がベルリンにいた経緯、真千子と貴久男の関係を読み落とし、真千子が倉沢家に意図的に近づいていることに気づいてない」という、がっかりするほど見当違いな疑問すら抱かれているようなので、わたしが『黒百合』を初読時に引いた線や気づいたことの書き込みを追う形で、雑誌のレビュー欄という短い文章量の中では書けなかった、叮嚀な読解をここに示したいと思います。
整理してみますと、この小説の勘所は――わたくしのようなミステリー音痴などが言うまでもなく――第4章(昭和16年〜20年)にあり、この章の語り手である宝急電鉄で車掌(のちに運転手に出世)をしている《私》の正体にまつわるミスディレクションに、作者の多島さんは心を砕いているわけです。
第3章中(P103)……《香の父(オデ註:倉沢貴久男)の死後(オデ註:この「死後」という設定もまた、地味ではありますが巧いミスディレクションになっているわけですね)に迎えた入り婿で、元宝急社員(これまた第4章の大事な伏線になっている)の》日登美の夫が初めて登場する場面で《かるく片脚を引きずるような歩き方》という描写がある。
第5章(P169)……《(オデ付記:日登美の夫の倉沢新也は)電車の運転もうまかった。何をやらせても有能だった。あのまま宝急にいたら、きっと出世していたんじゃないかな。かれを迎え入れた倉沢家は、見る目があるね》
第5章(P179)……日登美からアルバムを見せてもらった進の記述《適当にうなずきながらページを繰っていった私は、ある1枚の写真にふと目を留めた。制服制帽姿で正面を向いて敬礼をしている青年の写真。制帽の徽章は宝急電車の乗務員がつけていたものと同じだ。ということは、日登美さんの夫の若いころの写真だろうか》――これは第4章のエピソード(P115)と呼応するのですが、作者の多島さんは公平を期するためにこの後――《いつだったか、自動車に乗り込む姿を窓から見下ろしたことがあるが、あのときは傘の下にいたので顔は見えなかった。それにしても、この写真の人もたいへんな美青年で、しかもやはり誰かに似ている気がする。香の父親とはまた別の誰かに》という謎解きのヒントになる文章を続けている。
これらのミスディレクションによって、読者は4章で香の父・貴久男を正当防衛で殺してしまった、女子高生の日登美と清い交際をしている宝急電鉄の運転手と、6章(P206〜207)で香の叔父・貴代司を(4章で貴久男が使おうとした「ヴァルター」=「ワルサーP38」で)殺害する《右の脚が痛む》語り手は日登美の夫・新也だと思い込まされ、しかし、その後、第7章(P220)の《ふん。あの人(オデ註:新也のこと)、戦地で片脚に鉄砲の弾を受けたんやて。戦後、内地に復員してきて宝急電鉄に復職して、ほんで重役さんの紹介で日登美叔母ちゃんとお見合い結婚しはってん》という記述によって「犯人は新也じゃないのか」と気づかされるわけです。
でも、注意深い読者ならこの記述に至らずとも、先に挙げた第6章の最後の文章《ワルサーP38。ドイツ語のできる貴久男は、これを「ヴァルター」と発音していたっけ》で犯人が第2章で登場した相田真千子であることがわかってしまうのではないでしょうか。というのも、第4章で貴久男の「ヴァルターや。懇意にしてる陸軍大佐から護身用にゆすってもろたんや」と言われる《私》がもし、この時に貴久男と初対面だとしたら貴久男が「ドイツ語ができる」ことがわかるはずがないからです。そして、そのことを知っているのは家族以外では……と考え、貴久男と関係のあった人物の名前を脳裏に浮かべていった時、貴久男によってベルリンに追いやられた相田真千子(このあたりの事情は第5章P159〜160で明かされている)の上で焦点が結ばれる。
このあたりの作者のフェアプレイ精神の徹底ぶりに関して、叙述ミステリーの論理的整合性の見事さについて、「TV Bros.」という短いレビュー・コーナーで「その趣向自体はいいのですが」のひと言で済ませたわたしは、たしかにフェアネスではなかったと思います。ゆえに作者の多島さんに対しては「申し訳ありませんでした」と謝罪します。

でも、わたしの原稿のどこがこの小説を読み違えているのかは、精読し直した今現在もわかりません。
ヘテロの女性がなにゆえ男装の麗人のような車掌になり、女子高生と恋愛するのか」というわたしが原稿中で呈している疑問に関しては、第4章のP114に《その夜、愛人が来たときにも私はまだ日登美のことを考えていた。人妻であるその女と愛撫を交わすさなかも、日登美との交際をどうすべきか、迷いつづけていた》とあるんだから、「バイセクシャル」の間違いだと認めますが、わたしの原稿に批判的なミステリーファンの「真千子が日登美に近づいたのは、自分を捨てた貴久男への復讐目的じゃないか」という読解に関しては、
「たとえ、そうだとしても、あなた、そうそう都合よく、日登美が女性車掌である《私(真千子)》を好きになりますか」
「それは、真千子が「美青年」といってもいいほどの中性的な美しさを持っていたからじゃないの」
「きれいなら何でも好きになるんですか。人間には好みのタイプってもんがあるんじゃないですか。第一、いくら舞台となってるのが阪急電鉄がモデルの宝急電鉄で、それが宝塚歌劇団を連想させるからといって、日登美がレズビアン的性向の持ち主、かつての言い方にならえば「S」だなんてこと、真千子はどうやって知り得たんですか」

という仮想の会話によって反論しておきたいと思います。

「日登美と真千子が顔を合わせないことがありますか?」という点については、今もわたしの疑問は残ったままです。
戦後の六甲の別荘地という狭い社会で数年間にわたって、日登美と真千子が再会しないなんてことがあるでしょうか。だって、たったひと夏滞在しているだけの進ですら、郵便局の前と滞留先である浅木家の別荘の前で、2回も日登美とばったり出くわしてるんですよ。いわんや、真千子をや、です。いくら脚が悪いとはいえ、まったく外出しないわけがない。
そして、ここがわたしの最大の疑問なのですが、貴久男を殺害した真千子が、なぜあえて倉沢家の大きな別荘から歩いて行けるくらいの距離のところに別荘を持つという危険に身をさらすことにしたのか。それがわからない。案の定、貴久男の弟・貴代司によって脅迫されるに至るわけですから。
せっかくミスディレクションの論理的整合性にはフェアネスを発揮しながら、日登美が真千子を当たり前のように好きになったり、真千子による貴久男の殺害という第2の殺人を起こすために、戦後の六甲の別荘地という狭い社会を舞台にしたりする「御都合主義」によって、画竜点睛を欠いている――それが、わたしの『黒百合』観なのです。
真千子がベルリンで貴久男を待っていた時の気持ち、裏切られたことがわかった時の思い、それらをすべてあえて書かないことによって、作者の多島さんは読者の好意的な読みを誘発しているとも思います。「真千子は貴久男をすごく恨んだにちがいない。だから、復讐のために日登美をたぶらかそうとしたんだろう」。そして、多島さんに好意的な読者は、わたしが先にも述べたような疑念(なんで、日登美は都合よく真千子に惚れたの? なんで日登美がSっぽい女子高生だってことが真千子にわかったの?)を意識下に押し込めて、作者の御都合主義的な語りに嬉々として乗ってしまう。でも、わたしはブロスの原稿でも表明したように「そのあたりの事情を支える説得力にはなはだ欠けるゆえに、叙述ミステリーとして素直に騙された快感に酔えない」んです。

犯人にまつわるミスディレクションの論理的整合性がすべての面にわたって敷衍されていたら、わたしもまた『黒百合』を傑作と絶賛したでしょう。でも、そうではなかった。そうではない小説を、しかし、本格ミステリーのファンの皆さんが絶賛することを揶揄するような書き方をしてしまった無礼はお詫び申し上げます。でも、「ミステリーの読者は作者に好意的な読み方をしがちなんじゃないか」という、わたしの数年来の疑念を撤回するつもりはありません。



あ、忘れてた。
新年明けまして、おめでとうございます。