9月23日(水)『1Q84』ネタバラシ問題顛末の巻

 旧聞に属しますが、この6月、筑波大学大学院教授の黒古一夫氏が北海道新聞に発表した『1Q84』書評に関し、わたしは氏のブログで「ネタバラシにすぎるのではないか」と疑義を呈しました。
http://blog.goo.ne.jp/kuroko503/e/a2228c915ae2edd4e8e51c800c6695c6
 で、その件に関して光文社のPR誌「本が好き!」に連載している「ガター&スタンプ屋ですが、それがなにか?」という原稿で一応の回答を示したのですが、なにぶん、入手しにくいPR誌ではありますので、掲載号が店頭から消えたのを機に、ここで全文掲載してみようかな、と。


 大渋滞の首都高速。動かない車の間をぬって颯爽と歩く一人の女性が、やおらミニスカートをたくし上げると鉄柵を乗り越え、地上へと続く非常階段を降りていく。村上春樹の五年ぶりとなる長篇小説『1Q84』は、そんな印象的なシーンから幕をあける。女性の名は青豆。スポーツジムのインストラクターという貌の他に、女性に暴力をふるう男どもを制裁する暗殺者の貌を持つ三十歳だ。この小説のいま一人の主人公が、予備校教師をしながら作家を志す天吾。彼は十七歳の少女ふかえりが書いた「空気さなぎ」という小説のリライトをするという、詐欺めいたプロジェクトに加担している。
 DV男のうなじに死の一針を打ち込む仕事を請け負っているうち、少女に性的暴力をふるうカルト宗教のリーダーに接近することになる青豆のパート。ふかえりが書いた、リトルピープルという謎めいた存在が跋扈する小説世界が現実を浸食していくさまを描く天吾のパート。ふたつの物語がどう重なっていくのかを読みどころにしたこの小説は、メロドラマチックな運命の恋のモチーフを奏でる恋愛小説であり、こことは少し異なる世界を舞台にしたパラレルワールドSFであり、たくさんの謎をちりばめたミステリーでありと、これまでの村上作品の集大成ともいうべき、盛り沢山の内容になっている。
 ジョージ・オーウェルの『1984』に出てくるビッグ・ブラザーとは違って、それとわからないような柔らかな物腰と表情でいつの間にか我々の中に入りこんでくる現代の悪。読んで無類に面白い物語の中に、単純な善悪二元論では把握できなくなった世界に生きる困難という大きくて重いテーマを響かせる。国民作家・村上春樹の後期の仕事の幕開けを予感させる、これはファンファーレというべき作品なのだ。(七四八字)

 いきなり、お粗末様でございます。先月号、「北海道新聞」(6月14日)に掲載された黒古一夫(文芸評論家・筑波大学大学院教授)のネタバレ『1Q84』評を批判したものですから、わたしも七五○字という同じ条件で1・2巻併せて二百万部を突破したベストセラー小説の紹介を試みた次第なんですの。
 新聞という媒体から、書店に並んだばかりの『1Q84』の書評を依頼された場合、自分ならどう書くか。まず、どんなに字数が少なくても粗筋紹介は欠かせません。しかし、その時点では読者のほとんどは村上さんの最新作を読んでおらず、大勢の村上ファンは「さあ、これから読むぞ」とばかりに胸躍らせている状態にあるはずなので、ストーリー上の感動や驚き、オチに直結するような要素については触れません。新聞の読者は文芸誌の読者と比べると、だらだらした文章や悠長な展開に対し我慢強くありませんし、七五○字という短い字数ですから、わたしの場合、出だしにもっとも気を遣います。書き出しで「ん?」と思わせないと、新聞の読者は書評などというものは読んでくれない、そのくらいの厳しい認識でちょうどいいと長年のライター仕事を通じて学んでいるからです。
 村上春樹は、読者の気持ちを最初からつかんでしまいたいという欲求が過剰なまでに強い作家なので、『1Q84』の場合、話は簡単。冒頭のシーンを素直に紹介すれば、よほどヘタクソに要約しない限りは「つかみはOK」になるはずです。七五○字ですから、後は必要最小限の情報しか列記できません。殺しの仕事の後は高ぶった神経をほぐすためにホテルのバーで髪が薄くなりかけの中年男をナンパし、「あなたのおちんちんは大きい方?」なんてあからさまな台詞を吐く、これまでの村上ワールドには存在しなかった新しいキャラクター青豆や、読字障害を持ち、疑問符抜きの平板な話し方しかできないふかえりの魅力も紹介したいところですし、〈こことは少し異なる世界を舞台にしたパラレルワールドSF〉と処理した青豆が迷い込んだ1Q84年の世界観についてももう少し踏み込んだ上で、「誰もオウム真理教があんなことを起こすとは思っていなかった」現実の一九八四年に対するこの作品の自己批判装置としての役割についても触れたいところですが、そんな贅沢は許されないのが、大方の新聞書評欄でわれわれライターが与えられる字数なのです。
 というわけで、恥ずかしながら、わたしのレビューも力不足からつまらない内容に堕しております。面白いか否かという評価でいけば、後で全文紹介しようと思っている黒古さんの書評に対して、胸を張れる代物とは思いません。でも、何度も繰りかえすようですが、必要最小限の情報しか紹介できない少ない字数の中、わざわざネタバラシをするという神経は理解できないのです。
 前号でも紹介しましたが、新聞に掲載されたネタバレ書評を、ご自身のブログに全文アップすることでさらに被害を拡大化した黒古さんに対し、わたしは以下のような書き込みをコメント欄に残しました。
 わたしは黒古さんの『1Q84』評はまずいと考える者です。それは粗筋に終始しているからではありません。わたしは見事な粗筋紹介は立派な批評になりうると考える者だからです(その小説をしっかり理解できて書かれた粗筋と、ろくに理解もできていないまま書かれた粗筋を並べて読めば、その意味がわかっていただけるかと存じます)。わたしが黒古さんの評を「まずい」と考えるのは、ネタばれゆえです。青豆が××することまで書く必要があるのでしょうか。新聞書評を読むのは取り上げられている本を未読の方がほとんどです。青豆と天吾の関係やラスト(わたしはこの小説には絶対続きがあると思いますが)を知って驚いたり、悲しんだりする読者の初読の快感の権利を奪う書評を、わたしは良いとは思えないのです〉
 それに対し、黒古さんは「喧しいことで。」というタイトルの日録でこのような返答をくださっています。

 さて豊崎由美さんの僕の「1Q84」評に対する批評ですが、「ヘタ」「上手」という価値基準で、人の文章を批判するのは如何なものか、ととりあえず言っておきたい。豊崎さんの本(文章)は、残念ながら大森望氏との共著(対談)「文学賞メッタ切り」(2004年3月刊 PARCO出版)しか読んでおらず、この本については「野次馬的な関心」からは面白いと思ったが、あいにく僕は豊崎さんのように「文壇」で生きることは端から考えておらず、全く無縁と思い、ただ求められるままに文学に関わる仕事をしてきた人間なので、「ヘタ」「上手」が書評の判断基準になることについては、正直言えば「むっ」ときたが、どうでもいいや、というしかないな、というのが偽らざる感想です。今後気がついたら、「上手」に書評を書く豊崎さんの文章を読むつもりではいるけれども……。
 だけど、文章(「書評」も含む)って、本当に「ヘタ・ウマ」という「技術」の問題なのだろか。もちろん、説得力を増すためには「技術」(豊崎さんなどはそれに加えて「(文壇)情報」など)も大切だろうが、僕はそれよりも著者の思想性(つまり、メッセージ性)の方が大切だと思っているが、所詮それは「好み」の問題に過ぎないだろう。

 黒古さんの〈「ヘタ」「上手」という価値基準で、人の文章を批判するのは如何なものか〉というくだりは、わたしの書き込みの後半部、〈物語の勘所に触れなければ批評的な書評は書けないという意見に対しては「それはヘタだから」とお答えしておきます。この黒古さんの評を含めた『1Q84』評については、光文社のPR誌「本が好き!」でわたしが連載している書評論「ガター&スタンプ屋ですが、それがなにか?」で書くつもりですが、「それはヘタだから」の理由もこれまでの連載分で述べてありますので、わたしに反論のある方はご不便おかけしますが、そちらのほうを読んでいただければ幸甚です。読んでいただけた上での反論にしかお応えしませんので、あとはよしなに〉に反応しておられるのだと思いますが、これは誤読です。わたしは黒古さんの書評を「ヘタ」と断じたわけではありません。〈物語の勘所に触れなければ批評的な書評は書けないという意見〉を持つ人がいるとしたら、そういう人に対して「それはあなたがヘタクソだからできないのだ」と言う準備があるというつもりでした。このような誤解を招く書き方をしたことに関しては、お詫びしたいと思います。すみませんでした。
 その上で、再度意見を述べたいと思います。わたしが気になるのは〈僕はそれよりも著者の思想性(つまり、メッセージ性)の方が大切だと思っている〉という箇所です。この〈著者〉が作品の著者を指すのか、書評の書き手を指すのかが、黒古さんの文章ではちょっとわかりにくいのですが、前後の展開から書評家であるという判断を下すなら、〈それは「好み」の問題に過ぎない〉なんて軽い文言ですまされることとは、わたしには思えません。
 いや、評者の思想が、取り上げた本の魅力をさらに高めたり、内容を深く読み込むための有効なツールとして披瀝されているなら、それは思想というものを持たないわたしのような無定見な人間が書くものよりずっと面白い書評になるのでしょう(七五○字の中でそれを達成するのは至難とも思いますが)。問題は、取り上げた本を利用して己の思想を披瀝する輩です。つまり、相手の土俵に上がるのではなく、自分の土俵に書評対象の本を無理矢理引っ張り込み、相手が無抵抗なのをいいことに自分の得意技でうっちゃる、そういう蛮行をふるうタイプの書き手。わたしは、そんな輩を優れた書評家とは思いません。では、思想を重んじる黒古さんが北海道新聞に寄せた『1Q84』評はどうか。ここに転載させていただきます。
(刊行から2ヶ月以上経っていますが、これから読もうと思っている方は、ここで拙文を読むのをやめてください。ネタバレ部分は×印に替えはしますが、それでも内容がわかってしまうかもしれませんので)

 著者が一九九五年に起こった阪神・淡路大震災オウム真理教事件から、この世の中には理性や常識では解決できない「魔」としか呼びようのない何ものかが潜んでいると覚知し、以後追求すべき文学的主題を転換させてきたことは夙に知られているが、五年ぶりの新作である本作品は、ジョージ・オーウェルの「逆ユートピア」を描いた近未来小説『一九八四年』からヒントを得て、「1Q84年」という「もう一つの年」に顕在化したカルト教団をめぐる様々な出来事を描き、本質的な存在である「魔=悪」から目をそらしている私たちの「現在」を照らし出そうとしたものである。
両親がキリスト教系の教団「証人会」信者であり、自分もその布教活動に連れ回されていた「青豆」と、父親でない男に乳を吸われている母親の姿を記憶の原点とする「天吾」は、一〇歳の時にお互いを必要な存在と意識するようになる。しかし、その後二〇年間二人は会うこともなく、青豆は今ではスポーツジムのインストラクターをしながら「女の敵」を抹殺する裏の仕事もやり、天吾は予備校の講師をしながら小説を書いている。本長編は、この二人の××××××××××××物語が交互に展開する形で進行する。物語を彩るのは、例えば学生運動であり、体制に背を向けた「コミューン」や「カルト教団」の分裂、現代版「駆け込み寺」の姿であり、「父子(家族)」の物語である。
 読者は、この小説の大切な要素でありながら意味不明な(SF的な)「空気さなぎ」や「リトル・ピープル」とは何かなど、について思いを巡らしつつ、いつしか必死におのれの「思い」に忠実な青豆と天吾の「××」成就を願うことになる。しかし、「魔=悪」はそんなに甘くなく、青豆は天吾と××するまえに××を選択せざるを得ず、物語は終わる。

 ネタバラシ以外はごく普通の書評、わたしはそう読みました。特に黒古さんの思想をひけらかす内容とは思われません。やはり、黒古さんがブログの中で書いている思想性(メッセージ性)とは、取り上げた本の著者のそれを指すのでしょうか。そうだとした場合、黒古さんは『1Q84』から〈「魔=悪」から目をそらしている私たちの「現在」を照らし出そうとした〉というメッセージ性を汲み取り、それを補強するためにネタバラシに直結するようなエピソードを明かす原稿を書いてしまった、そういうことでしょうか。うーん、わたしにはやはり納得がいきません。青豆と天吾の関係や、青豆が最後に選ぶ行動を明かさなくても(読者の初読の歓びを奪わなくても)、著者のメッセージ性を紹介することはできたのではないでしょうか。たとえば、青豆が接近することになる、カルト宗教のリーダーの言葉を引用したりすることで。
 その工夫も努力もしない書評すべてに対して、わたしは「ヘタ」といっているのであります。