VOL.2『リリアン』

リリアン (新潮クレスト・ブックス)

リリアン (新潮クレスト・ブックス)

北村 「新・ねにもつ2人」第二回は新潮クレストブックスから今年発売された『リリアン』。アメリカの女性作家、エイミー・ブルームの長編です。ラストでトヨザキ社長もちょっと泣いてしまった、という大河ドラマ。1924年7月3日──この日付には何が意味があるのかな?──のニューヨークから始まります。

主人公のリリアンは22歳の美しいユダヤ人女性。故郷ロシアでユダヤ人大量虐殺(ポグロム)に遭い、両親と夫を目の前で惨殺され、ひとり娘のソフィーを見失ってしまう。従姉を頼ってたどり着いたニューヨークで、劇場のお針子の職を得る……

この小説、まず面白いなあと思ったのは、文末がほとんど現在形なんだよね。「○○と男は言った」みたいな文章はなくて「○○と男は言う」。日本語の勉強をしていたときは“現在形”ではなく“非過去”という言い方をしていたのだけど、すごく特徴的だよね。


石井 そうそう。「非過去」という言い方はぴったりですね。新しい言語は、現在形からおぼえるからかなぁ。あと、リリアンが生きているということを際立たせる効果もある気がします。


北村 ああ、そうかも。これはリリアンが“生き延びて”“生き抜いて”いることを描いている小説だからね。リリアンが、家族が殺害されたときのことを思い出している部分だけは過去形で、現在と未来は徹底的に非過去で書かれている。

登場人物それぞれの「未来」のことはまたあとで話すことにして……劇場のお針子になってまもなく、リリアンは劇場のオーナー、ルーベンと、その息子で俳優のマイヤーの愛人になるんだけど、まるでソープオペラのような展開なのになぜか、そのあたりを読んでいるときはドラマティックなものを感じなかったの。

豊かな国アメリカに渡ってきて1ヶ月ちょっとでお金持ちとイケメンに囲われる、っていうものすごい幸運を掴んだのに、「もう自分の身に何が起こっても驚かない」っていうリリアンの絶望と諦念の深さが、はしゃいだり無邪気に喜んでみたりっていう心の動きを完璧に停止させてるんだよね。


石井 一緒に劇場の面接を受けに行く女の子は〈あたしには何かがあるの〉という期待を持っているけど、リリアンにはない。だけど、その子よりも前に出て、オーナーであるルーベンに話しかけることには躊躇しない。

もう人生には何の期待もしていないのに、目の前に取れるものがあれば取りに行く。心はうつろだけど、体が勝手に動いているみたいな。どこか離人症っぽいんですよね。自分との距離の取り方が。幽体離脱したリリアンが自分を見ながら三人称で語ってるような印象を受けました。

死んだ魂が空っぽになりながらも生きている体を見ているような語り口。北村さんがいうようにものすごい幸運を掴んだのに、感情の起伏がないのはそのせいなのかなあって。


北村 「非過去」での語りは、起きていることがリリアンの内側に染みて(浸みて・沁みて)ない、ということを表しているのかも。身体は生きてるけど心は死んでるから、現実が自分の中に入っていかない。


石井 染みて(浸みて・沁みて)ない……類語の使い方、面白いですよね。

一つの表現で決める、固める、とどめるのではない。そういう書き方がうるさくも迂遠でもなく、豊かに感じられる。言葉のグラデーションが美しいというか。不思議だなあと思いながら読みました。


北村 そうそう、かっちりしていないというか、意味が通りにくい文章もあったりするんだけど、それが広がりに思えるんだよね。


石井 ルーベンの親友で、ヤーコヴという仕立て屋が出てきますよね。リリアンはヤーコヴに英語を教えてもらう。彼は妻子が亡くなる〈以前〉、〈僕が生きていたときには、僕は阿呆(シュマック)だった。今では僕は美しき屍だ。ワルツを踊る死体だよ、わかるだろ〉という。ふたりが友情らしきものを育むのは、死体同士だからなんだろうなと思う。


北村 うんうん、なんていうか、ふたりの間には、自分たちは生きている人間を見つめている傍観者だという気持ちがあるよね。同士めいた友情。
ヤーコヴは自殺を図ったところをルーベンに救われたという過去があって、このふたりの間にも強固な友情がある。ヤーコヴはルーベンを、一時的にでも幸せにしてくれているリリアンに感謝している、という面もある。

リリアンはルーベンの要求に忠実に応え、マイヤーに対しても、彼がリリアンに求める以上の関係を決して欲しがったりせず──もちろん、リリアンは結婚したいわけではないのだけど──彼らが自分に与えてくれる「恵まれたもの」を注意深く享受する。


石井 分別がある、わきまえている、欲しがらないリリアンはルーベンとマイヤーの両方に愛される。リリアンを押しのけて愛人の座を得ようとする従妹は、父子両方に嫌われる。がっつく女はモテないんだなと思った(笑)。この従妹、たくましくてなかなか魅力的なんですけどね。


北村 そこに降ってきたのが、ロシアからやってきた従妹からの情報。「あなたの娘、ソフィーは生きている。近所に住んでいたピンスキー夫妻がシベリアに連れて行った」。で、リリアンはソフィーを探しに行くため、旅立つ決意をする……


石井 従妹の情報は曖昧だし、探しても見つかる可能性は低い。なのに、まったく今の恵まれた生活を捨てることを躊躇しないリリアンが、私は正直よくわからないと思ったんですよ。

ヤーコヴもわからないから〈ソフィーはきみのものだからなのか?〉ときく。リリアンは〈あの子がわたしのものだからじゃない。わたしがあの子のものなの〉という。ソフィーが生きていることで自分が自分のものじゃなくなったのに、息を吹き返している。


北村 ソフィーが生者であるなら、ソフィーのものである自分も生者(になる)ということ、かな。p87の〈生きている。死んではいない〉という一行が、リリアンと現実世界の間にあったフィルムを取り去った感じ。


石井 リリアンのソフィーに対する感情って、それまでは極力抑えて描かれているというか、ブラックボックスみたいじゃないですか。他人には話せない記憶だから。


北村 そうそう、分量は少ないよね。でも、たとえば、リリアンが妊娠したかもしれないと思った時によみがえってきたソフィーの記憶は、すごく濃いな、と思った。自分が今、恐ろしいくらい恵まれた生活をしているからこそ探しに行かなければ、という気持ちもあったんじゃないかと。のうのうとしているわけにはいかない、って。


石井 リリアンがこういう常軌を逸した行動をとることで、ものすごく、強い気持ちが隠されていたんだということが分かる。このへんがうまいなあと思いました。ヤーコヴと旅の準備をするところも好き。


北村 ヤーコヴの、リリアンに対する愛おしさが伝わってくるよねー。ヤーコヴが、絵の具でアメリカの歴史? を描いた何枚もの巻物を旅立つ前のリリアンに見せるシーンとか、良かったなあ。


石井 巻物を見終わったときの〈つまり、これがアメリカだ。〉〈なんてこたない。アイスクリームを食べに行こう。〉というセリフも、何気ないけどいいなあって。地図を縫いこんだオーヴァーとか。

前半に出会う人物では、ヤーコヴが一番好き。だからリリアンを見送ったあとのヤーコヴについて書かれているところは悲しかった。


北村 そうだね……。この小説は、リリアンをとりまく人物の後日談、さっき言った「未来」が書かれているのが大きな特徴なんだけど、マイヤーの後日談はちょっとおかしかった。<(ハリウッドに行って)性格のいいイタリア人ギャングや、性格のいいイタリア人牧師を演じてけっこうな暮らしを送る>って。つまり、クセのある役をやれるほどの演技力はない、顔で主役を取れるほどでもない、というところが。

さて、いよいよリリアンの旅──列車の物入れに閉じ込められての「アメリカ横断→北上」の旅──が始まるわけだけど、まあここからはそれまでの暮らしとは天と地ほどの差だよね。リリアンはゴミ以下の扱いを受ける。シアトル、シアトル、シアトルと心の中で唱えながら案内人の陰茎をしごいたりもする。


石井 ここ、読んでいる自分もにおいを嗅いでいるような感じでつらかった!
で、ようやくシアトルについて、ガムドロップと出会う。ガムドロップが私は好きなんですよ。かわいらしい黒人の小さな女の子に見えるけど、実は大人で、プロフェッショナルな娼婦。売春婦の労働組合の指導者になりたいという目標もある。賢くてたくましいところがいいなぁと思って。


北村 自分のロリータ風の外見をちゃんと売りにしてて、したたかで、リリアンを値踏みするところもプロって感じだよね。「美しいよりは勇敢でありたいわ」っていうセリフがカッコイイ!


石井 ガムドロップもリリアンとはまた違うけれど、過酷な人生を送っている。でも、生き生きとしているんですよね。ガムドロップやヒモのソルトが着ている服の描写も、カラフルで読んでいて楽しかった。


北村 2人が別れるシーンは、この小説で何度も出てくる別れの場面の中でも、明るさがあって印象的。リリアンの旅はまだ全然途上で、ここから船に乗ってカナダに行くんだけど、拾ってくれた善人の善意から、女子農作業場に入れられてしまう。

ここでリリアンが出会うのが、中国の詐欺師一家の娘チンキー。義侠心があるというか、男の子っぽい雰囲気もある女子で、チンキーとリリアンはちょっと(?)淫靡なこともしたりするんだけど、このチンキーもガムドロップ同様、たくましいキャラだよね。

石井 「中国人(チンク)」といって馬鹿にした女の子をあっという間に屈服させたり、お気に入りの女の子を招いて読書会をしているミセス・モーティマーに取り入ったり。そういうことを、あっけらかんとやるところがおもしろい。 農場のパートは、女囚モノというか、ちょっと百合小説風。


北村 まさにそんな感じ。リリアンは先に農場を出て行ったチンキーを恋しく思うんだけど、私はここで「そうか、リリアンはまだほんの22,3歳の娘なんだよなぁ」と思ったの。普通は女友達と夜遊びしたりする年齢なんだよな、って。


石井 いわれてみれば。すっかり忘れて、自分と同年代くらいの感じで読んでましたよ。農場を出ると、世話になったカナダの警官の家で少し休んで、リリアンは北へ向かう。アラスカの電信道(テレグラフ・トレイル)に沿って、途中までは荷運び人のラバに乗せてもらい、あとはひとりで歩く歩く歩く。

ラバ隊と旅をしているときに、リリアンはルーベンたちと過ごした日々を回想する。北村さんが「本の窓」の書評で引用したところがあったじゃないですか。あそこを読んで、いいなぁと思ったんですよね。


北村 あの回想の文章は、そこからがひたすら孤独な旅になることの予兆みたいだなと思ったんだよね。覚悟みたいな感じもある。

一日に20マイル歩いてたどりついたアラスカで、母親を亡くして戸惑う小さな子どもたちのいる家族に出会い、自分にできる最大限のことをしてあげたリリアンがその先で出会ったのは……そう、私たちが語りたくてたまらないあの人(笑)

石井 そうそう、ジョン・ビショップ! モテたい男子は読むとよいですよ、ここのところを。間違ってますかね(笑)。

北村 いやいや、積極的に読んでほしいよ、真似できなくてもね(笑)女子はこんな男性を求めてるよねー。

私、最初の方で「1924年7月3日という日付になにか意味はあるのかな」と言ったけれど、こうやって千湖ちゃんとやりとりしながら読み直してみて分かった。「1926年7月2日」という日付が、ジョンとの間に起こるある出来事を示す記述に出てくるんだよね。リリアンがバースタイン父子に出会い、ルーベンに初めて声を掛けられた日から丸2年が経っていたということ。2年の間に、リリアンにはこんなにたくさんのことがあったんだと思わずにはいられない。


石井 濃い2年間ですよね。あと最後のところ、どう解釈するか悩んでいて。どこまで現実に起こったことなのか、後日談との関係など。最後のパラグラフまで来たときに「えっ?」と思ったんですよね。


北村 うんうん、非過去の語り口がそう思わせる理由だよね。でも私は絶対「リリアンは……と……で幸せになりました」っていう結末がいいんだあーー!(笑)


石井 私もですよ。 ただ、そういう揺らぎを最後に持たせている点もおもしろい小説でした。ハッピーエンドだけど陳腐じゃないんです。