バレーボールとテレビ ―バレー五輪最終予選後記1.―

ウチスタ(お家がスタジアム、部屋観戦でドキドキする)

やってくれました、男子バレー。待っていた時間が長かった分だけ、感激ひとしおでした。
やっぱり、男女両方ともオリンピックに行ってくれるというのは、本当に嬉しいことです。

そんな感動的な試合を見られたのだから、今回はもう目をつぶれるだろうと思っていたのに、やっぱり、どうしても引っ掛かってしまったのはテレビ中継のスタイルと、テレビ中継のために演出される試合の運営です。
試合後、敗れて勝ち残る可能性の消えたアルゼンチンの監督が、アンフェアな運営を皮肉っていたというニュースがありました。
その日が出場権を賭けて死に物狂いの日本との対戦になってしまったのは間違いなく運ですし、例え自分達がこのひと試合に勝ったとしても、イタリアをかわして1位通過で出場権を得た可能性は極めて低かった。それはもちろん承知した上での発言でしょう。
近年、日本開催の大会はすべて、今のようなスタイルで行われています。スケジュールなど、試合で優遇されるのは日本。最も価値のある扱いを受けるのは、優勝チームではなく日本。

日本で初めて開催されたワールドカップで、<各国の選手にわけへだてなく喝采を送った日本の観客>に対して「国際フェアプレー賞」が授賞されたこと、そのフェアな応援と運営が評価されて、ワールドカップの日本開催が永年になったいきさつなど、もはや忘却の彼方。

それでも各国が参加し続けるのは、アンフェアを相殺するメリットがあるからなのでしょう。金銭面や待遇、施設、地理的条件…。そういう物質的なポイントが高いことは容易に想像がつきます。運営慣れしているから、日本との対戦以外は比較的安穏に試合が進行するでしょうし、なんだかんだ言っても日本の観客はバレーをよく理解しています。なまじ条件の劣る国で開催されるよりはずっとマシ。だから他国の選手も文句を言わずにプレーする、といったところでしょうか。
そういったことも重々承知の上で、なお皮肉を口に出さすにいられなかったアルゼンチン監督の気持ち。
日本の臆面のなさに対して、
わかっちゃいるけれど、それにしたって、いくらなんでも度が過ぎてるんじゃないの?ギブアンドテイクとはいいながら、図に乗りすぎじゃないの?
そんな思いが抑えきれなくなってしまったのかもしれません。

実は、日本のバレーファンの中にも、こういった中継や運営にうんざりしている人が多いはずです。
毎度おなじみの、芸能イベントのような大会とその中継を、本人もバレーをしていたり、バレーボールというスポーツそのものを愛しているファンは、忸怩(じくじ)たる思いで見ているのではないでしょうか。

なんで、世界最高峰の選手達が集まってくれているのに、その頂点の国どうしの試合を見ることができないのだろう?
なんで、愛するスポーツを見ている最中に、そのスポーツを自分達のPRに利用しているアイドルの顔をのべつまくなしに見なくちゃならないのだろう?
なんで、いつの間にか、応援まで興行側に煽られ指図されるようになっちゃったんだろう?

他のスポーツで、こんな思いをすることがあるでしょうか?

例えばサッカーのワールドカップやテニスの四大大会で、日本選手のゲームしか中継されないなんて状態をファンは受け入れるでしょうか?
アイドルグループとのコラボは、バレー人気が下降していった頃始まりました。スポーツ自体の魅力だけでは注目をひけなくなったことに、当時のバレーファンは歯噛みをしたけれど、観客動員や視聴率の維持のことを考えれば背に腹はかえられなかったのだと思ったし、弱くて負けが続いている頃などは、なんとか盛り上げようとしてくれているんだから、と理解しようとしました。でも、芸能界側の侵食ぶりはすすむ一方です。
例えばプロ野球の試合で、始球式かと思っていたら、イニングごとタイムごと、それどころか満塁の場面で選手と交互に野球と無関係の人物が映るなんてことを、ファンは我慢できるでしょうか?
バレーの応援「にっぽん、チャチャチャ」はかつて、試合会場で自然に発生した応援でした。ここぞと思ったとき、誰からともなく湧き起こるのです。試合の勝負どころをバレーファンは本当によく知っていました。それをなぜ、「テレビ的なタイミング」に合わせるために煽られなければならんのか。スポーツDJの煽りを聞いていると、へそ曲がりな私はこう思ってしまうわけです。「あんたに指図されたくはナイっ!」

こんなにまでテレビ的なものに引っ張られないと、バレーは盛り上がれないのでしょうか?そんなにだめなのでしょうか?

<続く>