『赤ちゃん教育』

赤ちゃん教育 (講談社文庫 の 14-1)

赤ちゃん教育 (講談社文庫 の 14-1)

はあああ、読み終わるのがもったいないような育児エッセイに出会ってしまった。

フランス文学者の野崎歓が「群像」「ユリイカ」に連載していた育児エッセイをまとめたもの。単行本は青土社から出ていて、読まなきゃ〜と思いつつ忘れていたところに、講談社から文庫化された次第。講談社エッセイ賞を受賞しています。

私の中の「育児エッセイ」は、どちらかというとドタバタコントで笑いを取って、時にはちょっぴり感動の涙も織り交ぜて……という印象。なので、知性にあふれ、品がよく、端正でありながら飄々とした野崎先生の文章で綴られる育児エッセイとはいかなるものかとどきどきしながら読んでみると、のっけからノックアウト。

きかんしゃトーマスが大好きなご令息の話をしていたはずなのに、いつのまにか焦点は、ノーベル文学賞受賞者であるクッツェーの『恥辱』にスライド。これがまったく違和感がない。“蒸気機関車”という単語をうまくリンクさせて、子どもの愛らしさを讃えていた同じ口で、そのまま『恥辱』における訳者の技巧を讃える。さらには、「死」とはいともたやすく文学的テーマになりうるとしたうえで、〈この世に出てきてしまった赤ん坊、一日一日と生へのエネルギーをふくらませていく幼児は、文学をはねのける問答無用の野蛮さに満ちあふれている。〉とまた赤子へとスライド。この“文学”と“育児”という、一見対極にありそうなふたつの要素を見事にからめながら、すらすら読ませてしまう腕に脱帽です。

その後もマラルメ、ジュネ、サルトルカミュラカン、三島に太宰などなど錚々たるメンツを引き合いに出しながら、我が子の可愛らしさを滔々と語っていく。別に、前述したカタカナの名前をひとつも知らなくてもいいんです。全然気にせず楽しめます。高尚な香り漂う文章で、しれっと親バカぶりを書いているので、かえって滑稽さが際立つ。

たとえば、背中の曲がった知らないおじいさんに〈痩せすぎだ。もっとフカをかけてガンケンに育てなきゃならん。〉と言われ、〈男の子らしいお茶目さたっぷりのその可憐な姿態にいちゃもんをつける御仁がいようとは驚いた。〉と親バカ全開かつスカしたリアクション(笑)。

とはいえ育児中はそうそうスカしてもいられません。電車が大好きな子どもになんとか大根を食べさせようと、ひとくちずつに「やまびこ」「はくたか」など電車の名称を与え、たえず「運転士さん、ぱくっ!」「車掌さん、がんばれ!」と呼びかけながら食事を世話するシーンには、お父さんの悪戦苦闘ぶりが目に浮かぶようで微笑ましい。

また、「ぶーぶー(自動車)にのりたーい!」という子どもの叫びを聞いて、自動車はおろか運転免許すら持っていない著者の心情を察すると、こちらもたいへん切ない気分に……。

あとがきによると、この“文学×育児”エッセイというスタイルは〈幼い者の愛らしさを心ゆくまで讃えたいという欲求〉から書き始めたものの、それだけではあまりに親バカが過ぎてしまうので〈照れ隠しに、赤ん坊を前にして周章狼狽する古今東西の文豪たちの姿、さらには彼らの幼年時代の話も引き合いに出させていただきました。〉とのこと。ちょっとすました感じはわざとだったんですね。そこもまた(失礼ながら)いじらしい。

しっかし、惜しむらくは表紙とオビ! 五月女ケイ子のイラストと

偉い人だって、親ばかになる。偉い人だって、元はただの赤ん坊。
東大の先生が、「へええええ」満載苦笑(?)育児エッセイ!

というオビ文がぜんっぜんこの本と合ってないよ!

この表紙とオビに釣られて買った人も違和感を覚えるだろうし、また、こういうエスプリの効いたエッセイが好きな人にはまったく届かないと思う。うーもったいなさすぎる! 単行本で読んだほうが、よりこの本の雰囲気を味わえるかとも思うけれど、文庫版あとがきに書かれているご令息の“その後”がある意味凄まじいことになっていて、これは必読。

赤ちゃん教育

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