2月12日(火)小雪まじりの基本雨

締切を延ばしに延ばしてもらっていたH誌の原稿を書き上げて送稿。
パパ・タラフマラの『シンデレラ』を観劇するために下北沢ザ・スズナリへ。同伴者は岸本佐知子さんと白水社の編集者S木さん、新進批評家にして翻訳家のO澤さん。
が、出来映えには正直がっかり。前にやはり岸本さん&S木さんと観た『三人姉妹』とは雲泥の差というべきなんである。なにしろ、大人数を登場させすぎ。パパタラは研究生を抱えているので、これはそのお披露目のような意味もあるのだろうか。
わたしはパパタラはかなり初期から観ている。こんなものが演出家・小池博史の本調子とはとても思えない。というわけで、わたしがかつて「TV.Taro」誌で書いた、パパタラ最高傑作ステージの『SHIP IN A VIEW』に関する劇評を載せておきたい。
 表現に携わる者なら誰だって一度は自分にとっての原風景を描こうと試みる。そこで育ち、そこを出て、時に立ち帰りたくてたまらなくなる場所。記憶を形成していく過程で少しずつ、自分の中で美化され、卑下され、捏造されていく原風景は、誰よりも何よりも懐かしいのに、いざ描こうとすれば遠のき、逃げ水のごときディスタンスを保つ。我が精神の輪郭をデッサンしてきたその時、その場所を、表現者は描きたいと切望し、描ききれないジレンマに身を焦がすのだ。その繰り返しが表現というものかもしれない。
パパ・タラフマラ。82年の旗揚げ以来、小池博史氏の作・演出・振付で、アート志向の強いダンス作品を世に送り出し続けているグループだ。今回のステージは97年に『船を見る』というタイトルで上演され、海外でも高い評価を受けた作品の再演。本作の初演時までは抽象的というか、記号的というか、いかにも80年代的に軽やかなポストボダニズム様式をまとったスタイリッシュなステージングで目を楽しませてくれていたパパタラが、小池氏の故郷(茨城県日立市)の記憶をモチーフにし、意味という重い錨を自らに課したことで、より美しく、より深化した表現の軌跡を獲得。長らく再演が待ち望まれていた、グループ代表作といっても過言ではない傑作なのである。
照明を落とした舞台をゆっくりと横切っていくミニチュアの船。その後、パフォーマーたちはダンスで所作を抽象化しながら、港に船をつける船員たちや、港町の賑やかな、そして時にうら寂しい光景に点在する人々を生き生きと再現させる。舞台中央にはマストとも電柱とも思わせる柱が屹立。それを中心に、舞台上の光景は船上と港町どちらにも自在に表情を変える趣向がこらされているのだ。
船が港に入ってきて活気づく町には船員の恋人や娼婦がいる。恋人たちがいる。男に捨てられて絶望する女がいる。子供の手を引く男がいる。学校で授業を受ける子供たちがいる。道化師的存在の“村のバカ”がいる。祭りで踊る人々がいる。そして、舞台の奥にはそうした事どもをじっと見つめ続ける男がいる。――とは書いてきたものの、計算し尽くされた美しい動きを見せるパフォーマーたちの、いちいちの所作の意味は、本当のことをいえばよくわからない。わからないんだけれど、でも、サウダージ(郷愁)のような感傷を伴って、わたしの脳内にそうしたイメージが生み出されたのだ。
たゆたうように優雅な線を描きながら舞台上を漂う人や、何かにせき立てられるようにせかせか動く人、夢みるような眼差しで歩く人、ステージ上に身体をだらしなく投げ出す人、祭りの狂騒に身も心も委ねて陶酔する人。このステージに現れては消えていく男女は、わたしたちの現世の姿だ。その情熱、その愚かしさ、その絶望、その愛、全てがわたしたちそれぞれの原風景の中に遍在する確かな感情なのだ。
というように、小池氏は自身の原風景を描きながらも、ナルシシズムや独善に陥ることなく、観客それぞれの原風景をも喚起する普遍性を生じさせている。ブルガリアン・ヴォイスのような歌声や納豆売りなどの声を除けば台詞もなく、現代アートのようなオブジェ以外には装置らしい装置もない簡素なステージだけれど、だからこそ横溢する豊かな記憶が生むイメージ、そのエッジが際だつ。舞台奥に水平線を示す夜明けと日没の光景を作り出した照明の美しさ、パフォーマーの動きを影絵のように映し出す幻想的なシーンなど、一見忘れがたい演出の数々に陶然とするうち、あっという間に至福の時は過ぎ去ってしまう。幾度でも再演されるべき素晴らしい作品だ。
今年の10月、パパタラは東京グローブ座ジョナサン・スウィフトをモチーフにした作品を上演するらしい。スウィフトはわたしの好きな作家でもある。公演を楽しみに待ちたい。
終演後は「Zaji」に行って飲む。夜中の3時頃まで、おおよそバカ話。