母校愛憎その4 私の「リリーマルレーン」

 禁断の果実は甘い。禁じられるから甘いのか、甘いからこそ禁じられるのか――前3回の連載でお話ししたように、何を間違ったか、私が通った小学校(カトリック系女子校)には、今考えてもその根拠がよくわからない〝奇怪な規則や、現実ばなれした因習〟がたくさんあった。それは、まさに禁断の果実のように、私の好きなこと、得意なことに限ってその学校では罪悪とみなされていた。
 小学2年のある日のこと。すでにどこか厭世ぎみだった私は、教室の喧騒をよそに窓辺にもたれてある流行歌を歌っていた。すると、なかよしのM代ちゃんがやってきて「あーいけないんだぁ。テレビの歌うたってるぅー」と指摘した。私は仕方なく誰にも聞こえないように、窓の端に寄せられたカーテンにグルグルと巻かれて、声が外にもれないようにして続きをうたった。

 小学校時代の規則の中で手を焼いたもののひとつに〝テレビの話をしてはいけない〟というものがあった。〝テレビの話〟とはまたずいぶん漠然としたくくりになるが、つまり、普通の小学生が学校で休み時間にするような、昨日見たテレビの感想や、好きなアイドルの話、テレビから発生した流行語などを、学校では一切口に出してはならないというものだ(NHKの一部の番組を除いて)。
 今でこそ、メディアの情報を漫然と受け止めてしまうことの危険性もわかるし、当時からそれを知っていて、子供のテレビ視聴を制限している家庭もあった。でも、禁止の理由は、どうやらそういう理由ではないようなのだ。教師は「自宅で見るのは一向に構わない」と言うし、今で言うメディアリテラシー的な話は保護者にさえ一切なかった。理由はただ一点「勉強と関係ないから」とのこと。当然、私は(勉強に関係ない話がダメなら、昨日の夕飯の感想も、飼っている犬の話も厳密に言えばダメじゃん……)と、いつものごとく心の中で毒づいていた。今、思えば教師たち(の多く)が修道院暮らしの修道女で、テレビが見られないからというのが本当の理由だと思えてならない。

 当時、テレビは娯楽の王様だった。近所に住む友達も少なく、兄弟とは歳が離れ、親も忙しく、娯楽の少ない家庭に育った私は、当然のごとくテレビっ子だった。そんな私に「テレビの話をするな」というのは、ドイツ人にビールを飲むなと言うようなもの(?)。毎日が一種の罰ゲームだ。
 それでも、ゲシュタポの目をのがれて日記を綴ったアンネ・フランクのごとく、迫害されればされるほど、表現欲求は高まるもので、さまざまな工夫の末、私は〝テレビの話〟をした。

 歌番組が好きだった私は「ザ・ベストテン」という当時人気のランキング番組を毎週欠かさず見ていた。もちろん、次の日は同好の士と好きな歌手の楽曲や出演シーンについて、感想を語り合いたいのだが、もちろんそれは許されない。そこで、私たちは数々の隠語を作成して会話した。「昨日〝ザベテン〟(ザ・ベストテンを略して)見た?」など、今思うとかなりざっくりとした隠語だが、小学生女子はこれでも必死だった。
 雑誌の切り抜きやブロマイドなどは、所持が見つかろうものなら没収&親の呼び出しは必死なので、同好の士とブツの交換をする場合は、家を出る段階で制服の下に仕込み、トイレの個室で受け渡しをするという〝リトル勝新〟ぶり。
 しかし、こうした行為はすぐざま教師に嗅ぎ付けられ、呼び出されては小一時間の糾弾を受けた。そして、〝私は今後一切、学校でテレビの話をしません〟などという、今思えば相当まぬけな念書を書かされ、次の日までに親の押印を求められた。

 しかし、私たち反乱軍は懲りなかった(遠方から通う生徒もいたので、一度帰宅してから、誰かの自宅に集まるということは実質的に不可能だった)。話すだけにとどまらずテレビの真似事もした。放課後の教室にモノマネ上手の同級生を集めて、ザ・ベストテンもどきのシークレットライブを開催した。衣装は制服や体育着をアレンジし、教壇がステージ代わりだった。廊下から部外者に見られないように、ドアののぞき窓に模造紙で目隠しをした。教師が廊下を通り過ぎるときは、速攻ですべてを撤収して〝放課後のたわいもないおしゃべりタイム〟を装った。
 当時は、本気でビクビクし、怒られては疲弊していたが、こうして隠れて興じた悪事(?)が、今は小学校時代唯一のキラキラとした思い出になっているのは皮肉なもの。やはり、禁断の果実は甘いのだ。

 「リリーマルレーン」という曲をご存知だろうか。第二次世界大戦下のドイツで、ララ・アンデルセンという歌手が歌ったこの曲は、前線のドイツ軍兵士の心を捉えるが、ナチスの軍曹ゲッペルズの天才的直感により発売禁止となり、ララは逮捕される。しかし、この曲の持つ不思議な魅力は連合国側の兵士にも受け入れられ、当時、反ナチス主義者としてアメリカに亡命していた、ドイツ人女優のマレーネ・ディートリッヒが、この曲を携え戦地を慰問。「リリーマルレーン」は世界的なヒットとなり、その逸話は今も世界中の人に語られている。
 小学2年のあの日、私がカーテンの中でこっそり歌っていたのは、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」だった。今でもこの曲を耳にすると、好きなことはすべて否定され、クラスの保守派の密告に怯え、戦々恐々としていた当時のことを思い出す。私にとって「津軽海峡冬景色」という曲は反権力の象徴、私の「リリーマルレーン」なのだ。